創設者・鳥山敏子
◇創設の思い
「東京賢治シュタイナー学校」の創設者・鳥山敏子(とりやま・としこ)は、30年以上にわたって公立学校のの教師として子どもたち、そしてその親たちと向き合ってきました。
公立学校時代の彼女は、生きた鶏を絞めて調理をしたり、豚を丸ごと解体して食べるといった「いのちの授業」や、自由意志で集まった親や子どもたちと劇をつくるなど、公立学校の枠組みを超えた生き生きとした学びの場を創り、広く知られる存在となっていました。
彼女の授業は「奇跡」「伝説」と言われ、多くの賛同者が集まりました。その取り組みの中で鳥山敏子は、子どもたちの抱える問題と同時に、子どもを通して見えてくる“親の問題”にも目を向けるようになります。
そこで生まれたのが、長野県美麻(みあさ)の「賢治の学校」です。
これは20代の若者が集まって、演劇などの活動を通して自分自身を見つめ直す学校です。校名は宮沢賢治の詩の中にある「人がどのように生きるのか」という問いから名付けられたもの。
その取り組みからわかってきたことが、「やはり、子どもの頃からの教育が必要だ」ということでした。
そこで今度は、“子どものための学校”を考え、拠点を立川に移します。それが97年、わずか2人の生徒からスタートした「東京賢治の学校」です(※当時は、賢治の学校「子どもクラス」)。この学校は多くの賛同者とともに、宮沢賢治の思想とシュタイナー教育を実践する“学びの共同体”としてかたちづくられ、20年後の現在にいたっています。
――鳥山敏子 略歴――
1941年、広島県呉市に5人兄弟の長女として生まれる。60年、香川大学教育学部入学。64年、東京都青梅市立第十小学校で教師に。同時に民間教育運動にもかかわり、実践を深める。60年代の教育科学運動のなかで、地球・人間の歴史の授業や鉄づくり、米づくりの授業といった先駆的な授業を行う。70年代、演出家・竹内敏晴(たけうち・としはる)らの演劇的レッスンをもとにした、独自の「からだとことば」のワークショップに参加。80年代をとおして、「いのちの授業」を実践し、生き生きとした授業を子どもたちとつくる。その奇跡的とも言われる授業内容は、多くの著書や映画「鳥山先生と子どもたちの一ヶ月間 からだといのちと食べものと」(グループ現代、1985年)などに記録されている。また、教師としての宮沢賢治の研究を経て、賢治の花巻農学校時代の教え子たちに聞き取り取材をした、『先生はほほ〜っと宙に舞った – 写真集 宮澤賢治の教え子たち』や、DVD映画「宮澤賢治の教え子たち」全11巻を作成。94年、公立学校を退職。その後、宮沢賢治の詩の中にある「人がどのように生きるのか」という問いを見い出し、長野県に若者のための「賢治の学校」を立ち上げる。同時に全国で、親も子も自分自身の問題と向き合うワークショップの実践に励む。97年、立川に活動拠点を移し、全国各地でワークショップや講演活動を展開。多くの賛同者とともに、宮沢賢治の思想とシュタイナー教育を実践する“学びの共同体”として「東京賢治の学校」がかたちづくられていった。2002年、NPO法人取得。2003年、「東京賢治の学校」から「自由ヴァルドルフシューレ シュタイナー学校」へ。2013年「東京賢治シュタイナー学校」に校名変更。同年、10月7日、肺炎のため死去。
主な著書
- 『からだが変わる 授業が変わる』(晩成書房、1985年)
- 『いのちに触れる 生と性と死の授業』
- 『イメージをさぐる からだ・ことば・イメージの授業』(ともに太郎次郎社、1985年)
- 『ブタまるごと一頭食べる』(フレーベル館、1987年)
- 『自然を生きる授業』(晩成書房、1991年)
- 『写真集 先生はほほ~っと宙に舞った 宮沢賢治の教え子たち』(塩原日出男・写真、自然食通信社、1992年)など
- 『みんなが孫悟空 子どもたちの“死と再生”の物語』(太郎次郎社、1994年)
- 『賢治の学校(2)』特集:いじめ・家族・学校(晩成書房、1995年)
- 『賢治の学校 宇宙のこころを感じて生きる』(サンマーク出版、1996年)
- 『居場所のない子どもたち アダルト・チルドレンの魂にふれる』(岩波書店、1997年)
- 『生まれかわる家族』(法藏館、1997年)
- 『子どもの声がきこえますか 「賢治の学校」から、親であるあなたへ』(法研、1998年)
- 『賢治の学校(2)』(サンマーク出版、1998年)
- 『親のしごと・教師のしごと―賢治の学校の挑戦』(法藏館、2000年)
- 『生きる力をからだで学ぶ』(トランスビュー、2001年)
- 『からだといのちと食べものと』(自然食通信社、2003年)
- 『親が1ミリ変わると子どもは1メートル変わる』(カンゼン、2008年)
◇すべてが型破りだった公立時代
鳥山敏子は、公立学校時代から教科書だけにとらわれない、子どもの内側から湧き出る力を尊重する授業を実践してきました。
彼女の行動はすべてが型破りでした。当然、学校で干されることもあれば、非難を受けることもありました。それでも彼女は同一歩調を強いられがちな公立学校の枠にはまらず、生き生きとした学びや総合学習の追求を行い、独自の授業を繰り広げていきました。
教科書に子どもを合わせず、子どもの“興味”に授業を合わせるようにすると、教科書に載っている何十倍もの内容の授業ができたそうです。次第に、「昨日、こんなものを見つけてきた」と、子どもが興味を抱くものが、どんどん教室に持ち込まれるようになってきました。そこで、子どもがオタマジャクシを持ってくれば、それを使って授業をします。そこから45億年の地球の歴史や生命誕生の授業に発展していきました。
子どもの質問に答えられないときは本を読み、それでも納得がいかなければ著者や専門家を訪ねて直接話を聞いていたそうです。鳥山家の家計費の大半は、教材研究費で消えていました。
なかでも有名なのが、豚を丸ごと一頭教室に持ち込んで解体して食べる、あるいは生きた鶏を放って子どもたちに捕まえさせ、絞めて調理するといった「いのちの授業」です。
この授業の目的は、“生き物を食べるとはどういうことか”を、子どもたちに実践的に体験させることでした。
当時、勤務先の昭島市周辺は農村部で、子どもたちの親は昭和30年代を経験してきた世代でした。そのため鶏や豚を絞めて食べるという授業も、親にとってはかつて身近で見てきた光景でもあったため、そこまでの反対はなかったそうです。とはいえ異を唱える親もいないわけではありませんでした。ただし、彼女の繰り広げる授業によって、子どもたちが生き生きしてくるため、賛同してくれる親のほうが多くなっていったそうです。
親たちも自分たちで劇を披露して発表したり、近所で採れた柚子を授業のために持ってきてくれたりと、積極的に鳥山学級の授業づくりに関わるようになってきました。他にも、心を身体で表現する「みんなが孫悟空」など、革新的な授業を次々と実践していきました。そんな70年代、80年代の彼女の活動は次第に注目されるようになり、映画化もされています。現在の「東京賢治シュタイナー学校」の原型が当時、すでに彼女の教室でかたちづくられていたのです。
鳥山敏子の原風景は、幼少期を過ごした讃岐平野にあります。自然に対して畏敬の念を持っていた祖母のもとで、草花を愛し、動物を愛し、幼い頃からいろいろな生き物を育てながら自然体験を重ね、生きる力を生みだしていたのです。また、彼女は小学校3年生の時、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」と出会いました。そして37才で没した賢治の詩の中に、人がどのように生きるのかの問いを見い出し、自らの実践の中でその答えを探していきました。
その感覚を70年代、80年代の子どもたちに渡したいというのが、公立時代の彼女が思い描いていたことでした。
◇学校設立時の様子
「なんとしても子どもたちが生きる希望の持てる社会を、大人の責任においてつくりたい。子どもと子どもがつながり、教師と親がつながる『賢治の学校』を、星の数ほどつくっていこう」
創設者・鳥山敏子はこんな思いから“学びの共同体”を目指し、「賢治の学校」や講演会、ワークショップを通してさまざまな取り組みを続けてきました。そこに集まった大人たちの中から、次第に子どもを「賢治の学校」の輪の中で学ばせたいという声が強まり、97年、立川で賢治の学校「子どもクラス」が開校しました。
立川という場所を選んだのは、鳥山敏子の衝動的とも言える決断でした。紹介されたビルは半地下になっていて、隣は立川公園なので他に大きな建物が立つ心配はありません。向かいには梨畑が広がり、真っ白な花が咲いていたそうです。しかも交通の便が良い場所……ということで、即断即決でした。もちろん度重なる会議で密な話し合いをしていたという土台あってのことですが、大事な決断の瞬間を彼女は逃しませんでした。
慌てたのは周囲です。ビルの3フロアを借りるとなると、当然大きなお金がかかります。支度金も必要です。そして生徒も誰もいない状態……。そこで鳥山敏子が言ったのは、「お金が出来るまで待っていたら、絶対に学校はできない」という言葉でした。
そして彼女は執筆や講演活動を、教師や親たちもワークショップをたくさん開いて資金集めに奔走することになります。すべてが手作りでのスタートでした。その姿は冒険的なベンチャー企業のようでもあり、志を共有する有志の集まりでもありました。
根底にあったのは、誰かが創った学校に集まるのではなく、それぞれのできることを実行して生み出したお金で、みんなで創り出していくものだという考えでした。
かくして、事務所を兼ねたビルの一角に2人の子どもたちが通うようになりました。とはいえ生徒2人となると、普通に考えても学校経営は成り立ちません。その後も、賛同者たちが知恵と力を出し合って、たくさんの仕事をやり続けました。それは親や教師にとっても、大人として成長していくための学びそのものだったと言えます。
地道な活動が実り、2年後の99年には全日制の幼児クラスと小中学部がスタートしました。
2001年には親たちが空き家になっている一軒家を見つけて、自らの手で改修工事を始めました。そこで初めて、子どもたちだけの「けやき校舎」が誕生したのです。
◇人物エピソード
“夜中の3時に芋掘りをしに行く”
“台風の後に、エネルギーの渦巻く川を見に行く”
“雪が降ったら、授業をやめて雪の中を転げまわって体験させる”
鳥山敏子には、今でも語り継がれるエピソードがいくつも残っています。
6、7年生を対象にした天文学合宿でのことです。
大きな台風があり、いつ行くのかという日程を決めかねていました。
台風が過ぎ去った次の日の朝、子どもたちが学校に来ると、彼女はいきなり「今から合宿に行きますから、一回家に帰んなさい。準備をして○時に立川駅に来なさい。」と言いました。理由は単純で、台風が去った後の空はきれいだからです。それを見ることが子どもにとって大切なことだから「今日しかない!」と。
お子さんの一人が横須賀に住んでいて、どう考えても無理だろうと思われました。共働きの家庭だったので親もいません。「どうするの?先生」と教師たちも心配しました。
「大丈夫、もう6年生だから、自分でできるから」「とにかく来させるの」
というのが彼女の答えでした。
子どもたちは帰され、荷づくりをし、その日のうちに全員が長野に行きました。
周囲が「絶対できない」と言っても、「何とかなりますよ」と、強行するのはいつものことでした。実際、本当に何とかなるから不思議です。そのためには子ども自身も力を出さなければけないし、親も教師も知恵と力を出さなければいけません。瞬時に判断して動いていく機転や切り替える力、それがうまくいくように頭を使って考える力を、今思えば彼女が生み出してくれたのかもしれません。
彼女の口癖のひとつに、「その瞬間しかない」というものがありました。今できることは、今しかない、という意味です。時間や時期、状況を問わず、とにかくやりきることが大切だというのです。振り回されるというネガティブな観点もありますが、本物の感動を自分の中に目覚めさせることができるのです。
彼女の破天荒とも言えるエピソードに共通しているのは、瞬発的で即興的な力を養わせたいというもの。同時に、喜びや感動を分かち合う力を根付かせるためでもありました。それは、一生感動できる人間にしていきたいという、長期的な視点があってのものです。
彼女はすべて思いつきで言っているわけではなく、行動を起こしながら常に先を考えている人でもありました。今話していることの三歩以上先を常に見ていたため、周囲は混乱し、意図を理解するまで時間がかかったそうです。当然、食い違うこともありましたが、彼女の教育に対する信頼があるので、じゃあやるかとやってきました。何と言っても子どもたちが生き生きし、身体の中から大きな力が生まれているのを実感できるため、教師たちはそんな子どもたちからエネルギーをもらっていたそうです。
「どんなことがあってもなんとかなる」「たとえ失敗してもなんとかなる」という感覚は、今、子どもたちの中に確実に根付いています。まさに彼女自身がそのように生きてきましたし、それを子どもたちに見せ、体験させてきた先生でした。