宮沢賢治の教え子 インタビューシリーズ
 11巻セット【DVD】

目次

以下にコンテンツをご紹介します。

総集編「先生はほほーっと宙に舞った」

1991年作品 112分 共同制作:小泉修吉(グループ現代)
教え子たちの「からだ」に今なお残る教師宮沢賢治。先生は道を歩いていると、突然草むらに入ったり、何かを発見すると、「ほほーっ」と言って跳び上がったりしました。教え子たちの人生に蒔かれたたくさんの種が、彼らの後の人生でどのように花開いていったのでしょうか。この映画1本で15人の教師宮沢賢治が見られる総集編です。

その1「種山が原」

1995年作品 54分
根子吉盛さんは羅須地人協会のころの賢治を知る教え子の一人。生前賢治と親交が篤かったと言います。その根子さんが、「宮沢賢治の映画をつくるのなら、”種山ヶ原”を撮らなきゃ」と語ります。種山ヶ原は、北上山地の真ん中にあって、賢治の作品に度々登場する高原です。その種山ヶ原の夏の原風景の中に、宮沢先生と歩いた思い出、賢治作の夢幻劇「種山ヶ原」、羅須地人協会時代の賢治の姿が、教え子の語りを通して見えてきます。

その2「雨ニモマケズ」

1995年作品 106分
賢治の晩年の仕事は、なんと営業マンでした。岩手県東山町の東北砕石工場(鈴木東蔵社長)と手を組み、石灰から土地に合わせた肥料を調合し売り歩きました。その時の詳細な営業記録や、工場で働いていた人々の遺族たちの話を通して、最期まで農民の生活向上に命を捧げた賢治の姿と、手帳に書かれた「雨ニモマケズ」も詩が賢治の思いを語ります。

その3「心象スケッチ」

1999年 78分
見えない心象風景を、スケッチブックに書き留める賢治。それを不思議そうに眺めていた教え子たち。寄宿舎の宿直を引きうけた先生は度々暗い夜道を歩いたり、月夜の晩に生徒と出かけたりしたこともありました。当時の先生の歩き方、暮らし、宮沢家の長男としての評判、父親との関係、田の水をめぐっての仲裁。さらに亡くなった先生から送られてきた法華経のことなど、心に残る賢治の姿がいっぱいです。

その4「イギリス海岸」

1999年作品 88分
教え子たちをどこにでも連れていった宮沢先生。北上川の泥岩が川面から出ている岸辺を「イギリス海岸」と名付けました。その川底から露出した泥岩の中に残るクルミや牛の蹄痕などの化石採り。農業実習後に生徒たちとイギリス海岸で水泳。海水浴にいけない生徒たちは大喜び。しかし危険なことも。そんな宮沢先生が、イギリス海岸にきた大学の先生に地質の事を教えているのを見て、生徒たちは先生に尊敬の念を抱いたのです。

その5「稲作挿話」

1999年作品 89分
「先生はまともに歩くことが少なく、一緒に歩いているとすぐ、ほほーっと走り出して、ひょいと藪に入っていくんです」と語る朝倉六朗さん。宿直を頻繁に引き受けていた宮沢先生は、寄宿舎に入っていた朝倉さんたち生徒を、夜でもあちこち連れていったと言います。佐藤栄作さんは、先生の「家畜なければ、農業なし」 という言葉を胸に、杉山伝助先生に「杉山農法」を学び、感化を受け、鶏とリンゴの独自の農業経営を開始。農業への有機質利用にいち早く関心をもった先生の教えを受けた生徒たちのその後が語られます。

その6「精神歌」

1999年 99分
「人の命を育てる百姓は、何の職業よりも立派な職業である」と生徒に語った宮沢先生。 専業農家一筋でやってきた瀬川哲男さんは「今も農作業をしていると先生と出会い、先生を感じ、先生と話をする」と語ります。その瀬川さんは60歳を過ぎてから、賢治が花巻農学校生徒のために書いた「精神歌」の探求に取り組み始めました。映画では、「精神歌」のことばに触れながら、賢治が世界、人間、そして人の道をどのように捉えていたのかを、瀬川さんが解釈していきます。この探求は、さらに「農民芸術概論綱要」の真髄へと導きます。

その7「クラムボン」

1999年 90 分
北上川に浮かぶ小舟に乗った宮沢先生と教え子の照井謹二郎さん。その川面にリンゴを落として遊ぶ先生。水面に広がる輪が光を受けて輝く。「きれいだー」と感動し何度もくり返す先生。照井さんは、よく先生に連れられて、山や川に行き、そんな姿を見ていました。その後、幼稚園の園長となった照井さんは、約50年間賢治の童話劇を子どもたちと共に取り組んでいくことになりました。また、浅沼政規さんは詩人高村光太郎や宮沢先生との出会いを語り、「雨ニモマケズ」の詩中の「ヒドリ」をめぐって語ってくれます。

その8「バナナン大将」

1999年作品 82分
友だちの入学試験についてきただけの長坂俊雄さんに、宮沢先生は声をかけ、長坂さんは花巻農学校を受験することになり、合格します。数多くのいたずらをした長坂さんに、宮沢先生も負けてはいません。先生に裏をかかれた数々の思い出が語られます。そして長坂さんの人生を変えた、劇「バナナン大将」。その精神が、のちに長坂さんが日本兵として駐留したインドネシアで、現地の日本人240人の命を救うことにつながっていきます。

別巻1「長坂俊雄艶笑小咄」

1999年作品 86分
かつて日本には、男と女の出会いをめぐる艶笑談が全国各地にあり、優秀な語り手がいました、今聞くと「それは女性への差別だ」と思えるものも、数多くありますが、こういうことが全国の農林地帯に、ある潤いを与えたことを知っておくのも必要なのかもしれません。長坂さんはそういった今はほとんどいなくなってしまった語り部の一人で、日本文化の財産としても記録しておく実用を感じ、まとめた映画です。

別巻2「長坂俊雄の昔ばなし語り」

1999年作品 87分
幼年期におばあさんから毎晩聞いたお話の数々を、地域の子どもたちに語る長坂さん。幼いころの体験が、どれだけ長坂さんの人生に影響を与えていたか、物の豊かさがなかった時代におばあさんの昔話が、どれだけ大切な時間であったかが想像できます。また、長坂さんの語りに引き込まれていく現代の子どもたちの姿は、語り手と聞き手ということ、昔話の意味についても考えさせられます。

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この映画を編集した四宮さんは、元宮城教育大学学長の林竹二さんの授業を映画にした方です。林さんは、四宮さんたちが林先生の授業を映画にしたいと言った時、「私を撮らないで、子どもを撮ること。子どものからだの中でどのように授業が成り立っていくかを撮ること。」というような条件をだしたそうです。 この賢治の教え子シリーズも、賢治の教え子たちが語る様子、ことば、動きの中に、教師宮沢賢治先生の一部が見えてきます。この映画は教え子たちが語る宮沢賢治の情報ではなく、70年経っても教え子たちのからだに残っている教師宮沢賢治先生の姿なのです。 林竹二氏は、「子どもの中に事件が起きない授業は授業ではない。」とおっしゃった方です。この映画も観る人の中に事件が起こるように創られているかもしれません。しかも繰り返し観る度に新しく何かが生まれるように創られているかもしれません。この映画を理解することは、東京賢治シュタイナー学校の授業を理解することにつながっていくかもしれません。 現在賢治の教え子でご存命の方はいらっしゃいません。またこの映画が11本連続で一般上映されたことはありません。初めて公開される映画がほとんどです。
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写真協力 林風舎

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